ドブルゲームを続けるように

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初詣は大吉1番。

地元に帰ってきている。家族で晩ごはん食べながらニュース見たりして、地元にいた時のことを思い出したりする。

 

東京で出来た友達の地元が、たまたま見ていてたニュースに出てきていて、「このニュースのところ、友達の地元なんだよー」と話したけれど親は興味なさそうだった。そりゃそうか。わたしも地元にいたまんまだったら、あまり知らない土地に興味を持っていなかったはずだ。いつかニュースに出ていた山口県に行ってみたいと思う。

 

ostooandellというバンドの「君はまるでダンスしているみたいに」という曲が好きで、サブスクでは聴けないので気が向いた時にyoutubeで聴いている。

8ヶ月前に「ずっとこの曲が忘れられなくて、何度も聴いてしまう」というコメントを残していたんだけどすっかり忘れていた。そしてそのコメントのスクリーンショットが今日友達から送られてきて、思い出すことができた。なかなかyoutubeにコメントを残す方ではないので見つけられてしまったのがかなり恥ずかしい。

 

ご飯を食べ終わって、家族でドブルというカードゲームをする。カードには8種類の絵柄が描かれていて、全てのカードはその8種類のうち1種類は同じものが揃うように描かれているらしい。(嘘のような本当)

自分の手札と山札のカードの絵柄を見比べて、同じ柄を探して、同じ柄の名前を叫びながら早いもの勝ちでカードを奪いあっていくゲームだ。お父さんが「ドブルくん」の絵柄をずっと「手!」と言っていたのにウケてしまった。確かに手である。

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日々の時間を過ごすにつれて、こういう共通項の絵柄をたくさんの人と増やすゲームをしているんだろうな。

東京で友達と会っていなかったら山口県に興味も持たなかっただろうし、ostooandellにも触れられていなかったかもしれない。

なんだか感傷的に繋げてしまうのは、雪がたくさん降ったせいにしたい。

 

 

 

bowling 中2 dance

2022年あけましておめでとうございました。

 

2021年1番聴いた曲はひがしやしきさんの「bowling中2dance」です。朝会社に行く時狂ったように毎日聴いていました。イントロからサビまで綺麗すぎる。

 

youtu.be

 

毎年恒例の振り返りを帰省が落ちついてきたこのタイミングでGOします。

 

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2021年四季折々

1月

毎年元旦に帰省をしているのだが、今年も元旦に新幹線に乗った。新青森駅で在来線と待ち合わせをしているとなんと東京でも遊んでいる地元の友達に遭遇。あまりに偶然が過ぎたのでそのまま焼肉を食べに行き、共通の友達を呼んで飲み会をし、ぐでぐでになり帰宅。こんな娘でごめん、と親に謝りながら寝る。あとは大学の同期とディズニー行けて楽しかった。

 

2月

特に変わったとことはせず、彼氏と一番仲良しの友達とずっと会っていた。鍋とか食べてる。焼肉とか食べてる。TikTokとかやってる。よければ探してみてくださいね。

 

3月

路上で声かけてきた男女二人組と意気投合し仲良くなった。この人たちとは今でも会ったりするくらいの友達になっている。なにかの縁ってすごいですね。はじめましての人とプリクラ撮れたの嬉しかったな。在宅時のお昼ご飯、冷凍パスタにすることにハマって冷凍パスタ日記をつけ始めたが1ヶ月で飽きている。★5をつけていた時もあった。あとシンエヴァンゲリオンに感動しすぎて3月中に2回見に行った。

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4月

久しぶりの友達とちょいちょい会い始めたりしている。デカい肉を食べた。初めましての人とおうちで大豆田とわ子を見たり、シーシャを吸ったりした。充実しとるナァ。そして社会人3年目になってしまった。

 

5月

GWにも友達とお酒を飲んだりしている。彼氏にチャリをなくされたのでさすがに買ってもらった。閉業前のアップリンク渋谷に行けてよかった。文フリ出てないのにあいさつ回り。いろんなフォロワーに会えてうれしい。会社が嫌になって休んで葛西臨海公園に行き、海を見ながらうに丼食べた。そのあとレンタル自転車でオリンピック選手村を見に行く。こういう退廃的な遊びをずっとしたい。高円寺界隈の人たちと仲良くなり始める。みんないい人たち。給料が3万くらいあがった。いえーい。

 

6月

等々力渓谷を見に行って銭湯に行ってお家でパーティーさせてもらった休日の記録を発見。そしがや温泉21の21ってなんだろう?彼氏と別れの危機あり。別れ話をしたくせにその後2人で和田堀公園に行って別れる話はなくなった。あの子は貴族に触発されてアフターヌーンティーも行った。入谷にある古民家民宿に泊まり、アドレスホッパーなる人々と交流。軽やかに生きたい。チェンソーマン展最高。一人はさみしい。有馬温泉と神戸観光。六甲という街に惹かれる。絶対にまた行く。ロロのいつ高、劇場で見れてよかった。

 

7月

高円寺から中野までの道で友達2人それぞれと遭遇して運命感じちゃう。なぜか酒豪伝説もらいました。まだ飲んでないのもったいないな。友達に誘われて街コンなるものに参加するもまったく楽しくなかった。これから先、婚活することがあるとしても街コンは絶対に使わないだろうな。東京オリンピックから抜け出したくて東京都唯一の村・檜原村に旅行へ。滝見たり変な乗り物乗ったり、民宿でめっちゃ食べさせられたり、花火したり卓球したり、ぼくの夏休みを満喫。最高。深夜2時の高円寺で鬼越トマホーク坂井と遭遇。

 

8月

帰省なし。だらだらお盆を過ごした。

大好きなひがしやしきさんのアートワークに採用される。めちゃくちゃ嬉しくて色んなところに自慢した。本当に大好き。

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9月

ブルーライトカットメガネ購入。相変わらず友達と飲み会したりしている。秋のBBQも開催。みんな偏見を持っていてすごい。彼氏と富山旅行へ。大仏を見たり海鮮を食べたりトロッコ電車乗ったり秘湯に入ったりニホンザルに吠えられたりした。野生の動物が一番無理。お笑いライブ終わりに空気階段2人とハナコ菊田、かが屋賀屋に遭遇。

 

10月

キングオブコントで涙。空気階段はもう友達ですね。SUSHIBOYSのライブ終わりに絶縁された友達にばったり会ったりした。偶然ってすごいですね。リングフィットを始める。誕生日にニンテンドースイッチを買ってくれる両親、優しいね。彼氏には六本木の回らないお寿司を連れて行ってもらった。うまかったなー。友達とはユネッサンに行った。もう行かなくてもいいかな。

 

11月

大学の文化祭に行く。いつかの先輩たちに自分たちがなっていることが悲しかったり嬉しかったり時の流れを感じたり。久しぶりに会う先輩も後輩も同期も変わっていない感じがしてよかった。特命ぺこぱの観覧や庵野秀明展に行ったりカラオケオールをしたりしている。

 

12月

お酒を飲んでピザを食べてシャンパンを飲んで刺身を食べて、食を満喫している。変な中華屋の店主とライン交換して爆ウケ。高円寺でランジャタイ伊藤ちゃんと遭遇。高円寺ってマジで芸人めっちゃおるやん。M-1 2021で涙。錦鯉すごい。。真空ジェシカはもっと点数もらえてよかったはず。。。クリスマスはちゃんとしたところでディナー。怒涛の忘年会からのカウントダウン!カウントダウンTVのメガネの方です。言うとしたら僕ー!ポーズは今年絶対に流行らせる。

 

2021年の目標振り返り

2021年は、自分の直感を大事にしてあげたいな。これやったらどう思われるんだろとか、こうしたらこうなるかもしれない、とか他人のことだったりマイナスなことを考えてしまいがちだけど、そういうのを無くしたい。直感がイイって言ってるからそっちに進みたいな、みたいな軽い感じで動いていきたいなあ。

→まぁちょっとは軽くなったかな。。。自分の体感ですが。。。

 

・1ヶ月に2つくらいはブログを書く

→× まったくブログを書けなかった…

 

・映画を年100本見る(あくまで目標)

→〇 2021年は122本見ました!よかったー!

 

・友達とのラジオを収益化させる

→× フォロワー足りず収益化ならず…けどPodcast配信までできるようになった!

 

・お酒を飲む時3杯目で水1杯頼む

→△ これができた飲み会もあればできない飲み会もありましたね…

 

・各シーズン新しい服1着は買う(毎年同じ服を着ている自分が嫌だと思い始めた)

→× 結果:夏2着 冬2着 変わり映えしない自分のファッション…

 

・銭湯やサウナにかけるお金を出し惜しみしない

→〇 行きたい時にお湯に行けた!

 

有馬温泉に行く

→〇 また行きたい

 

2022年の目標

・ファッションのロールモデルを決めて服を買う

・透明感がある肌にするよう努力する(顔)

・「オシャレ」を頑張る

・現在体重マイナス5キロ減量してそれをキープする

・湿疹の色素沈着をどうにかするよう努力する

・本を100冊読む

・映画を100本見る

 

とりあえず外見に全振りできるように1年を費やしたいと思います。かわいくなるぞ…

 

そしてみなさん、2022年もよろしくお願いしました!頼んだ!

ブログはぼちぼちがんばります。

自分の文章だけは信じ続けたい。

 

水ではない陽

 

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ちょっと前に25歳になった。無事に生き延びてしまった。いろんな人から「おめでとう」という言葉をもらった。去年も「おめでとう」を言ってくれてる人もいれば、この一年で仲良くなった人もいる。関係性とは不思議なものだな。できるだけ人とのつながりを無くしたくないけれど、気づいたら仲良しの友達でさえも、連絡を躊躇うようになったりする。そうなると仲良しではなく「仲良しだった」になってしまうのか。

好きな人が「好きだった」人になってしまう日が訪れるかもしれないという可能性があることが怖い。

生き続けるってことはその可能性と常に戦わなければいけない。じゃあ誰のことも好きにならない方がいいのかも、と臆病な自分もいるし、そんなんつまんねーと攻撃的な自分もいる。

 

この間「からっぽ」という映画を見た。タイトル通りからっぽの女の子が主役の話。からっぽだから、いろんな自分になれるし、なりたいんだろうな。

平野啓一郎の「分人」という概念をそのまま映像化したような感じだ。それがいいとか悪いとかではなくて、人間ってそういうものなんだと思う。いつも同じ自分ではいられないから、いろんな人と会っていろんな自分を見出していくしかない。「他人を通してしか自分の形がわからない」というのもそれ。自分がどんな形をしているのかは、自分ではわからない。とりあえず、水ではないということはわかる。

 

文章をまたきちんと書き始めると決意し、文集もまた作りたい。新しい環境に身を置く努力をしたいし、やったことないことをやってみたい。他人の要求を精一杯聞こうとしてたけど、自分の気持ちを1番に考えたい。そういうことだ。これは決意の日記。とりあえず人生で決意表明できるのは誕生日の時くらいなので、存在がありがたい。

みなさんも決意表明のために生き延びてください。

あれ、目的と手段が逆になっちゃってるな。

ご自愛ください。わたしも自愛します。

 

また会いましょう。

 

 

一生一緒にいるって約束じゃん

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君と僕は一生の友達なのさ

 

友人におすすめされまくって「フランシス・ハ」を見た。好きか好きじゃないかと言われれば好きな方だった。ただ、主人公が空回りする描写がリアルすぎてしんどい。どんなドラマでも小説でも映画でも「主人公が場の空気を読めず空回りする」という描写は普遍的にあるけれど、なかなかそれを受け入れられない。加えて「フランシス・ハ」のその描写はかなりリアルで胃が痛くなった。わたしはめっぽうそういう描写に弱いんだと初めて気づいた。これが共感性羞恥というやつらしい。

そして、「フランシス・ハ」の中では主人公が、絶大な信頼を置いている友人(をおそらく想像して)の形容をするシーンがある。

パーティー会場でお互い遠くに居ても、お互いが特別だとわかっている

そしてそのパーティーの離れている間でも目があったりして、存在を確かめ合う

確かこんな感じ。

改めて、この描写は特別な人に当てるものだ。そしてこの描写を目の当たりにする時わたしたちは思うのである。

 

「さて、自分にとってこういう人は誰だろう?」

 

これは誰でもいい。大好きな友人でも、大好きな恋人でも、大好きな家族でも、はたまた関係性の名称をつけられない人間でも。

わたしにとって大事なのはこの先である。

わたしはAを思い浮かべたけれど、はたしてAはわたしのことを思い浮かべてくれただろうか?

答えはYES or NOだ。真実はAの中にしかない。Aに問いかけても無駄だ。問いかけたところで、気を遣って「あすみだよ」と言ってくれているかもしれない。そんなものに意味はないのだ。

だから、この問いは無限なのだ。誰にも答えがわからないし、わかるはずもない。

わかるはずもないから、全部わかりたい。そういう意味のない追求をしたくなる。意味ないのにね。誰にもわからないのにね。一生一緒なんていられないのにね。

 

この日記を長らく書いていて気付いたことがある。

わたしは「一生一緒」という関係に憧れていて、焦がれているんだと思う。絶対無理だと思っているからこそ、そういう関係が輝かしく見えるんだろうな。

 

できる限り、みなさんは一生一緒にいてください。

とりあえずはわたしが生きている間くらい。

 

 

 

彗星きどって流れた

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会社の最寄駅として竹橋を使っているが(本当は神保町)、入社した時から建設中だったビルの建設がついに終わりたくさんの人が収容されていくビルができていた。

ビルの1階はガラス張りでデカデカと「丸紅」と書いてあるのが見える。超大企業の自社ビルを毎日眺めながら、その中に吸い込まれていく超大企業勤務の人に混ざりながら社会に適応しようとしている。

人生で1回くらいは「ピッ」ってやるゲートを通って出社したいなーとか思うけど実際なったらなったでめんどくさいんだろうな。

 

結局根が田舎者なので超大企業を見るとドキドキしてしまう。丸紅勤務者の平均年収は1400万ほどだという。20代でも年収800万だとか。自分の現状とかけ離れすぎて、どうなってんの?!って気持ちになるけど、そういう気持ちになるだけ無駄である。上には上がいて、丸紅で働く人も高みを見てどうなってんの?!って気持ちになるんだろう。

 

 

突然スコールが降って、夏だなぁと感じ気づいたら寒くなってこうやって季節が過ぎ去っていくんだとか思っている。そして結局まだ梅雨のままみたい。梅雨にはいい思い出がないので早く過ぎ去ってほしいけど、暑すぎない初夏の気温に身を委ねて、気持ちいいなぁと思ったりもする。

 

 

毎日ずっと画面を見ている。梅雨だから家で仕事する時くらい雨を眺めていたいんだけど、雨も眺めないくらいに画面を見ている。仕事を中断してPCから目を離すお昼休みになっても、テレビを見ている。わたしの家では、大人になってからテレビっ子になったお母さんの影響でご飯を食べる時にいつもテレビを見ていたので、その習慣が24年生きた今日にも根付いているみたいだ。

仕事が終わった後も、いつもiPhoneの画面を見てインターネットの虜になってしまう。

前になんかで見たけど、休みの日にYouTubeとか見るのもほんとは体には良くないらしい。結局仕事でPCを見ている時と「画面を見る」という行為は変わっていないから。

体はいつも違う刺激を求めていて、平日に「画面を見る」ことをしているのであれば休日は画面を見ないで運動をするくらいがいい刺激になるらしい。まぁわざわざ休日に走ったりスポーツに勤しんだりできる人間ではないので結局毎日同じ刺激しか体に与えられていない。わたしの体に同じ刺激しか与えられなくて本当にごめんね、と思いながらTwitterを開いている。

 

「画面を見る」をしていない時は友達や恋人とたわいもない話をしている時、映画のスクリーンを見ている時、本を読んでいる時、お風呂に入っている時…

こういう時、楽しくて嬉しくて、生きてて良かったなと思える時。

 

人に触れた時、なんとなくその人が思っていることがわかるような気がして、同時にわたしが思っていることもその人に伝わっているんじゃないかと思って恥ずかしくなる。

その時、新しい刺激をお互いの体に伝え合うことができているようで、嬉しくて、怖いな。

言葉ではなくて、触れた時に「好き」と伝え合いたいね。

 

 

https://soundcloud.app.goo.gl/V7GQCLfkTHLfeRTY9

new love/UFO society

 

人生ちゃんは続く

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・LINEギフトで届いていたスタバのドリンクチケットの期限が5/31で、LINEギフトからお知らせもきていたのにまんまと6/1になってしまった。

 

・2回会ったら友達だけど、永遠に3回目が来ないこともある。

 

・面白かったマンガを読み終えてしまった。

 

・初対面の男にヤれそうと思われて迫られたので拒否したら、後で共通の知人に「アレはいけた」と言われていた。

 

・待ち合わせ時間に「今起きた」とLINEが来た。

 

・皿洗いしとくねと言われていたのに何もせず寝られた。

 

こういう小さい絶望を積み重ねて、なんとか歳をとっている。「死にたい」と言いつつご飯を食べてお酒を飲んでタバコを吸って「八甲田山で凍死した〜い」「ゆるやかな自殺した〜い」と言って笑う。

気持ちが落ち込んだ時、文章を書くことでストレス発散をしていたけれど最近それもできなくなってきた。考える力がどんどん弱くなってる気がする。

 

本当にやりたかったことってなんだろ?

本当に会いたかった人って誰だろ?

本当にわたしってなんなんだろ?

と思うことは毎日多々あるけれど、お酒を飲んで全てなかったことにしてしまっている。

前述した小さい絶望も笑い話にして、ちょっと傷ついた心に対して不誠実に、「そういうこともあるよね〜」と見なかったふりを繰り返す。見なかったふりを繰り返しているとなかったことになって、いつのまにか心についた傷も感じなかったことになって、かさぶたに進化している。

 

かさぶたばかり増えていって、体全部がかさぶたになった時、わたしに残るものはなんなんだろうか。剥がさないと見えない自分になって、それはもうずっと仲良しの友達も、わたしを気遣ってくれる家族も、毎日わたしと一緒にいるわたしも、誰にも認知できないものになっていって、自分じゃないものになっていくんだろうな。こうやって自分が死んでいくって揶揄してしまうんだろうな。

 

渋谷で「愛うつつ」という映画を見た。愛してるからセックスできない彼氏と愛してるからセックスしたい彼女の話なんだけど、だいたいわたしたちはいつでも二元論で全てを考えすぎてるなと思う。

好き↔︎好きじゃない

セックスしたい↔︎セックスしたくない

みたいなこういう話は多分二元論ではできないんだけど、白か黒かを前提としてしまいがちだなと思った。こういう部分は好きだけどこういう部分は好きじゃないとか、今日はセックスしたいけど明日はセックスしたくないみたいな、そういうグラデーションが絶対にあるはずなのに全部一か百かで考えてしまいがちなのは悪い癖だな。みんな白か黒かではっきりさせたがるのはなんでなんだろうね。

はっきりした方が楽なんだろうな、という答えしか思いつかないけどもっと自由に曖昧でいたい。

 

セックスしたからその人のこと好きなの?とかさ、

セックスしないからその人のこと嫌いなの?とかではないじゃないですか、すべて。

秘密なことを話せるからその人と親密なわけではなくて、親密だからこそ言えないこともあって、そういう境界線についてもっと曖昧で寛容でありたいよね。

 

みんなに寛容でありたいので、今日も生きてるなって感じ。

 

 

 

 

春にもう溶けた

逆上がりもできないまま大人になっちゃってわたし

ファッション誌なんか読んじゃって

やられたって感じだ

コーヒータイム-大森靖子

 

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久しぶりにコーヒータイムを聴いたが、やっぱりいい歌みたいだ。やられたって感じだ。

常に心の中にあるというより、たまに思い出していわゆる「エモい」気持ちなるようなおまもりのようなもの。

心のお守りなんてものは誰しもがいくつか持っているのではないかと思うけれど、わたしが持っているいくつかの中の一つは、前に付き合っていた彼氏が「あすみさんはこの家を出る時に誰の事を思い出すのかな」とポエム的なセリフを恥ずかしげもなく投げかけてきたことだ。

投げかけられた当初は「こいつ普通の感じでポエム言ってくるじゃん!すご!」と冷ややかな目で受け止めていたが、そいつと別れた後もその家に住み続ける限り「誰の事を思い出すのかな」というセリフだけがわたしの心の中に埋め込まれ続けていった。当然引っ越す時には彼が吐き出したセリフを原文ママで思い出し、まぎれもなくお前だよと思いながら全ての荷物を引き払って引っ越した。

 

そんなポエマーともたまに連絡を取り合ってお互いにコイバナをしたりしていたが、やはり時が経つにつれ好みや考え方がゆっくりと変化しているようだった。

人間というのは変わっていくものだから仕方ないとはわかっているものの、そのことがずっとさみしく感じる。わたしだって変わっているはずなのに、他人に対して「変わらないでいてね」と願うことはひどいエゴだ。

 

先週「街の上で」という映画を見た。下北沢を舞台に主人公とその周辺の人たちの日常というか生活や関係性を描いているような映画だったけれど、「誰にも見られないけどここに存在する」というテーマがあった。そしてわたしたちの日常にも「誰にも見られないけどここに存在する」ことが無双にある。確かに存在するそれは、誰にも見られないまま変わっていってしまう。変わっていっても忘れないために心に留めておきたいのに、留めておけないことの方が多い。

変わっていくことがすごく怖い。尊いことなのに、変化していかないで、わたしを置いていかないでとすら思ってしまう。

遠く離れてしまった友達も確かにあったものが変化してしまったんだと実感する。

彼は変わることは怖くないし、変わった後の価値観を共有していけたら素敵じゃんといいのけていた。自分がどうしてもそうは思えないのは、変わった後の相手の価値観を否定してしまいそうになるからなんだろう。窮屈なのはいつだって自分の問題なのだ。

 

今週は坂元裕二脚本の「大豆田とわ子と3人の元夫」も観た。ミーハーなので話題の作品をとりあえず見ようと思って見たらやられてしまった。ミーハーに対して作られているんだろうなと心の中ではわかったふりをしていたにも関わらず。

劇中で東京03の角ちゃんが「お湯があって、お湯が冷やされて水になって、氷になったとしても、氷はお湯だった時のことを覚えているんだよ」と言っていて、坂本裕二だな~と思ってしまった。変わっていってしまっても忘れないことがあるでしょうと問いかけられているようだ。それが恋の記憶でも生活の記憶でも、確かにそこにあったことは事実だ。変わっていってしまっても、あの時あの場所では存在していたのだ。

前に付き合っていた人が結婚しても確かにわたしはその人と付き合っていたし、今は中野に住んでいるけれど確かにわたしは江古田に住んでいた。時が経って変わっていってしまっても、なくなることがない事実があるということがお守りのように自分の糧になっていくのだろう。

 

雨はほどけて、春がまた来るけれど、2021年の春は確かにここにあるのだ。