・LINEギフトで届いていたスタバのドリンクチケットの期限が5/31で、LINEギフトからお知らせもきていたのにまんまと6/1になってしまった。
・2回会ったら友達だけど、永遠に3回目が来ないこともある。
・面白かったマンガを読み終えてしまった。
・初対面の男にヤれそうと思われて迫られたので拒否したら、後で共通の知人に「アレはいけた」と言われていた。
・待ち合わせ時間に「今起きた」とLINEが来た。
・皿洗いしとくねと言われていたのに何もせず寝られた。
こういう小さい絶望を積み重ねて、なんとか歳をとっている。「死にたい」と言いつつご飯を食べてお酒を飲んでタバコを吸って「八甲田山で凍死した〜い」「ゆるやかな自殺した〜い」と言って笑う。
気持ちが落ち込んだ時、文章を書くことでストレス発散をしていたけれど最近それもできなくなってきた。考える力がどんどん弱くなってる気がする。
本当にやりたかったことってなんだろ?
本当に会いたかった人って誰だろ?
本当にわたしってなんなんだろ?
と思うことは毎日多々あるけれど、お酒を飲んで全てなかったことにしてしまっている。
前述した小さい絶望も笑い話にして、ちょっと傷ついた心に対して不誠実に、「そういうこともあるよね〜」と見なかったふりを繰り返す。見なかったふりを繰り返しているとなかったことになって、いつのまにか心についた傷も感じなかったことになって、かさぶたに進化している。
かさぶたばかり増えていって、体全部がかさぶたになった時、わたしに残るものはなんなんだろうか。剥がさないと見えない自分になって、それはもうずっと仲良しの友達も、わたしを気遣ってくれる家族も、毎日わたしと一緒にいるわたしも、誰にも認知できないものになっていって、自分じゃないものになっていくんだろうな。こうやって自分が死んでいくって揶揄してしまうんだろうな。
渋谷で「愛うつつ」という映画を見た。愛してるからセックスできない彼氏と愛してるからセックスしたい彼女の話なんだけど、だいたいわたしたちはいつでも二元論で全てを考えすぎてるなと思う。
好き↔︎好きじゃない
セックスしたい↔︎セックスしたくない
みたいなこういう話は多分二元論ではできないんだけど、白か黒かを前提としてしまいがちだなと思った。こういう部分は好きだけどこういう部分は好きじゃないとか、今日はセックスしたいけど明日はセックスしたくないみたいな、そういうグラデーションが絶対にあるはずなのに全部一か百かで考えてしまいがちなのは悪い癖だな。みんな白か黒かではっきりさせたがるのはなんでなんだろうね。
はっきりした方が楽なんだろうな、という答えしか思いつかないけどもっと自由に曖昧でいたい。
セックスしたからその人のこと好きなの?とかさ、
セックスしないからその人のこと嫌いなの?とかではないじゃないですか、すべて。
秘密なことを話せるからその人と親密なわけではなくて、親密だからこそ言えないこともあって、そういう境界線についてもっと曖昧で寛容でありたいよね。
みんなに寛容でありたいので、今日も生きてるなって感じ。