春にもう溶けた

逆上がりもできないまま大人になっちゃってわたし

ファッション誌なんか読んじゃって

やられたって感じだ

コーヒータイム-大森靖子

 

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久しぶりにコーヒータイムを聴いたが、やっぱりいい歌みたいだ。やられたって感じだ。

常に心の中にあるというより、たまに思い出していわゆる「エモい」気持ちなるようなおまもりのようなもの。

心のお守りなんてものは誰しもがいくつか持っているのではないかと思うけれど、わたしが持っているいくつかの中の一つは、前に付き合っていた彼氏が「あすみさんはこの家を出る時に誰の事を思い出すのかな」とポエム的なセリフを恥ずかしげもなく投げかけてきたことだ。

投げかけられた当初は「こいつ普通の感じでポエム言ってくるじゃん!すご!」と冷ややかな目で受け止めていたが、そいつと別れた後もその家に住み続ける限り「誰の事を思い出すのかな」というセリフだけがわたしの心の中に埋め込まれ続けていった。当然引っ越す時には彼が吐き出したセリフを原文ママで思い出し、まぎれもなくお前だよと思いながら全ての荷物を引き払って引っ越した。

 

そんなポエマーともたまに連絡を取り合ってお互いにコイバナをしたりしていたが、やはり時が経つにつれ好みや考え方がゆっくりと変化しているようだった。

人間というのは変わっていくものだから仕方ないとはわかっているものの、そのことがずっとさみしく感じる。わたしだって変わっているはずなのに、他人に対して「変わらないでいてね」と願うことはひどいエゴだ。

 

先週「街の上で」という映画を見た。下北沢を舞台に主人公とその周辺の人たちの日常というか生活や関係性を描いているような映画だったけれど、「誰にも見られないけどここに存在する」というテーマがあった。そしてわたしたちの日常にも「誰にも見られないけどここに存在する」ことが無双にある。確かに存在するそれは、誰にも見られないまま変わっていってしまう。変わっていっても忘れないために心に留めておきたいのに、留めておけないことの方が多い。

変わっていくことがすごく怖い。尊いことなのに、変化していかないで、わたしを置いていかないでとすら思ってしまう。

遠く離れてしまった友達も確かにあったものが変化してしまったんだと実感する。

彼は変わることは怖くないし、変わった後の価値観を共有していけたら素敵じゃんといいのけていた。自分がどうしてもそうは思えないのは、変わった後の相手の価値観を否定してしまいそうになるからなんだろう。窮屈なのはいつだって自分の問題なのだ。

 

今週は坂元裕二脚本の「大豆田とわ子と3人の元夫」も観た。ミーハーなので話題の作品をとりあえず見ようと思って見たらやられてしまった。ミーハーに対して作られているんだろうなと心の中ではわかったふりをしていたにも関わらず。

劇中で東京03の角ちゃんが「お湯があって、お湯が冷やされて水になって、氷になったとしても、氷はお湯だった時のことを覚えているんだよ」と言っていて、坂本裕二だな~と思ってしまった。変わっていってしまっても忘れないことがあるでしょうと問いかけられているようだ。それが恋の記憶でも生活の記憶でも、確かにそこにあったことは事実だ。変わっていってしまっても、あの時あの場所では存在していたのだ。

前に付き合っていた人が結婚しても確かにわたしはその人と付き合っていたし、今は中野に住んでいるけれど確かにわたしは江古田に住んでいた。時が経って変わっていってしまっても、なくなることがない事実があるということがお守りのように自分の糧になっていくのだろう。

 

雨はほどけて、春がまた来るけれど、2021年の春は確かにここにあるのだ。