水ではない陽

 

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ちょっと前に25歳になった。無事に生き延びてしまった。いろんな人から「おめでとう」という言葉をもらった。去年も「おめでとう」を言ってくれてる人もいれば、この一年で仲良くなった人もいる。関係性とは不思議なものだな。できるだけ人とのつながりを無くしたくないけれど、気づいたら仲良しの友達でさえも、連絡を躊躇うようになったりする。そうなると仲良しではなく「仲良しだった」になってしまうのか。

好きな人が「好きだった」人になってしまう日が訪れるかもしれないという可能性があることが怖い。

生き続けるってことはその可能性と常に戦わなければいけない。じゃあ誰のことも好きにならない方がいいのかも、と臆病な自分もいるし、そんなんつまんねーと攻撃的な自分もいる。

 

この間「からっぽ」という映画を見た。タイトル通りからっぽの女の子が主役の話。からっぽだから、いろんな自分になれるし、なりたいんだろうな。

平野啓一郎の「分人」という概念をそのまま映像化したような感じだ。それがいいとか悪いとかではなくて、人間ってそういうものなんだと思う。いつも同じ自分ではいられないから、いろんな人と会っていろんな自分を見出していくしかない。「他人を通してしか自分の形がわからない」というのもそれ。自分がどんな形をしているのかは、自分ではわからない。とりあえず、水ではないということはわかる。

 

文章をまたきちんと書き始めると決意し、文集もまた作りたい。新しい環境に身を置く努力をしたいし、やったことないことをやってみたい。他人の要求を精一杯聞こうとしてたけど、自分の気持ちを1番に考えたい。そういうことだ。これは決意の日記。とりあえず人生で決意表明できるのは誕生日の時くらいなので、存在がありがたい。

みなさんも決意表明のために生き延びてください。

あれ、目的と手段が逆になっちゃってるな。

ご自愛ください。わたしも自愛します。

 

また会いましょう。