君と僕は一生の友達なのさ
友人におすすめされまくって「フランシス・ハ」を見た。好きか好きじゃないかと言われれば好きな方だった。ただ、主人公が空回りする描写がリアルすぎてしんどい。どんなドラマでも小説でも映画でも「主人公が場の空気を読めず空回りする」という描写は普遍的にあるけれど、なかなかそれを受け入れられない。加えて「フランシス・ハ」のその描写はかなりリアルで胃が痛くなった。わたしはめっぽうそういう描写に弱いんだと初めて気づいた。これが共感性羞恥というやつらしい。
そして、「フランシス・ハ」の中では主人公が、絶大な信頼を置いている友人(をおそらく想像して)の形容をするシーンがある。
パーティー会場でお互い遠くに居ても、お互いが特別だとわかっている
そしてそのパーティーの離れている間でも目があったりして、存在を確かめ合う
確かこんな感じ。
改めて、この描写は特別な人に当てるものだ。そしてこの描写を目の当たりにする時わたしたちは思うのである。
「さて、自分にとってこういう人は誰だろう?」
これは誰でもいい。大好きな友人でも、大好きな恋人でも、大好きな家族でも、はたまた関係性の名称をつけられない人間でも。
わたしにとって大事なのはこの先である。
わたしはAを思い浮かべたけれど、はたしてAはわたしのことを思い浮かべてくれただろうか?
答えはYES or NOだ。真実はAの中にしかない。Aに問いかけても無駄だ。問いかけたところで、気を遣って「あすみだよ」と言ってくれているかもしれない。そんなものに意味はないのだ。
だから、この問いは無限なのだ。誰にも答えがわからないし、わかるはずもない。
わかるはずもないから、全部わかりたい。そういう意味のない追求をしたくなる。意味ないのにね。誰にもわからないのにね。一生一緒なんていられないのにね。
この日記を長らく書いていて気付いたことがある。
わたしは「一生一緒」という関係に憧れていて、焦がれているんだと思う。絶対無理だと思っているからこそ、そういう関係が輝かしく見えるんだろうな。
できる限り、みなさんは一生一緒にいてください。
とりあえずはわたしが生きている間くらい。