ここから海まで行けるだろうか

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往々にして、「運命だ!」と思うことが多い。

 

うん‐めい【運命】

人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命めいによって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて、将来のなりゆき。平家物語2「当家の―尽きぬによつて」。国木田独歩、運命論者「僕と貴様あなたと斯やつて話をするのも何かの―です」。「こうなるのも―か」「歌舞伎の―はどうなるか」

 

意思に関わりなく身の上に巡ってくる吉凶禍福。やばい疫病と言われているコロナ禍も運命なのだろうか。

けれどもわたしたちは大きな出来事というよりも個々人のごく小さいよくあるような現象に「運命」という言葉を使ってしまう。運命と思ってしまう。

 

・初めて会った人と好きな小説家が一緒だった

・配属先の上司の最寄駅が隣だった

・仲良くなりたいと思っていた人が近所に引っ越してきた

・たまたま見つけたブログにちょうど自分が考えていたことと同じことが書かれていた

Apple musicで好きなアルバムを聴こうと思ったら聴いた友達欄にいた

・Tinderでマッチした男の子と数日後知人の紹介で出会った

・電話が来ないかなと思っていたら向こうから電話がかかってきた

・夢に出てきた

...etc...

 

最近見た「花束みたいな恋をした」でも2人は運命的に出会ったように描かれているけれど、終電を逃してそのまま飲みますか?みたいなのは行動力さえあれば結構普通なのかもしれない。そこから先、押井守を判別できるかどうかが運命ということなのか?そしたらわたしは麦くんの運命の人にはなれないな。悲C。

 

まぁ結局、運命とは普遍的なのかもしれないねということだ。友達がその話をしていて、そのことを聞かされた時マジでそうじゃん!といたく感銘を受けてしまった。運命とは普遍的と思っているのにことあるごとに「運命かもしれない...」と一瞬でも思えるわたしはしあわせなのだろうか。

 

土曜日に会った友達に田島列島の「水は海に向かって流れる」「子どもはわかってあげない」「短編集ごあいさつ」を借りてすぐ読んだ。どれも名作すぎる。「水は海に向かって流れる」も「子どもはわかってあげない」も主人公とヒロイン/ヒーローとの出会い方が運命的だ。漫画だからと言われるとそれはそれまでなのだが。それでもわたしは彼ら彼女らの出会いに乾杯したい。「運命よ、導いてくれてありがとう」と。

田島列島の作品はどれも人から人へつながること・あなたの中にわたしがいること・わたしの中にあなたがいることがものすごく繊細に、それでいてわかりやすく描かれていて、ズシーンとなるのでおすすめです。出会い方が運命的だろうがどうであろうが、その出会った後の2人がとても美しい。

 

運命的な出会いをした、その後の2人が美しいといえば空気階段の単独「anna」のヤマザキくんとシマダさんもそうだった。同じクラスで居残りで掃除をさせられている2人がたまたま同じラジオが好きというきっかけで仲良くなって、卒業以来会わなくなったその後、運命的な再会をして・・・。その後の展開は「anna」という公演を見ている観客にとっては点と点が線になってそれがまた笑いを生んで、光が生まれて、圧倒的なハッピーエンド。ラスト「日曜日よりの使者」が流れて公演は終了するが、多幸感に包まれてしばらく余韻に浸れる爽快感があった。

 

普遍的ともいえる「運命」の中で、こんなにも信じていたいと思える「運命」があるということ、その後その「運命」が救いになっていくこと、重ねていきたいなと思う。

 

「運命」という救いを重ねて、海まで行きたい。